ライブアライブ
『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』は僕がアニメを観るようになったきっかけの作品で、やはり同世代の人間には同じ経験の人が多く特別な作品だと思う。
かつては前の世代の『ガンダム』『エヴァ』みたいな世代を代表する作品がただの萌えラノベだなんて、オタク第四世代が一番オタクの中で萌え豚世代なのを表してると思っていたが(まぁそれは今でも間違ってはいないと思う)、今振り返るとこれらは重要な作品だったと思う。
『ハルヒ』というのは、要は涼宮ハルヒというSF的なものに憧れる拗らせたオタクがSOS団の活動を通して日常の幸せみたいなものを掴んでいく作品だ。
つまりこれはオタクにおけるファンタジーから日常系への移行の話なのである。
そして『らき☆すた』はまさにその「日常」の実践編のような話で、そこでは泉こなた的なオタクトークと柊つかさ的な普通の日常が混在した世界が描かれている。
泉こなたのようなオタク女子高生は、『らき☆すた』放送当時の2007年には架空の存在だったと思うが、今の時代にはいくらでもいてもおかしくはない。
『ハルヒ』『らき☆すた』が僕らの世代のオタクを大量に作り、そしてその結果『らき☆すた』のような世界は本当に実現したのだ。
現実が虚構を作り、そして虚構がまた現実を作るという例だと言える。
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『ハルヒ』『らき☆すた』と比べると、その後の『けいおん!』は少し色の違った作品に思える。
『けいおん!』ではオタクという要素は一切なくなり、柊つかさ的な完全な「日常」だけが描かれる。
ではこのような世界はその後訪れたのかというと、それはある意味訪れていると言えるのかもしれない。
今では「オタク/非オタク」を分ける意味はあまりない。
「オタク」とはただの「アニメを観ている人」「ちょっとダサい人」程度の意味でしかなくなったし、オタクとSFやファンタジーという要素も結びついているものでもなくなってしまった。
「オタクである」という自意識は最早何の意味もなく、それはただの日常的なものでしかないのだ。
『けいおん!』とはロックバンドの話だが、「ファンタジーもなく、オタクの自意識もなく、普通の日常だけを描く」ことこそが、当時のオタク文化の中ではまさに「ロック」だったのだ。
それは一回限りの魔法のようなものであり、その役割を終えた日常系アニメはその後は一ジャンルとして収束していく。
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『涼宮ハルヒの憂鬱』が完結しないまま終わってしまったのは一つの象徴のように思える。
「オタクであるという自意識に意味がなくなった」と書いたが、ではオタクが拗らせを治し日常に戻れたのかというと必ずしもそうではないと思う。
最近のオタクは一般人と区別が付けられず、オシャレな人、リア充な人、オタク以外の趣味も持ってる人もたくさんいるだろう。
それでもいまだにオタク的な拗らせを抱えたまま生きている人は多い。