悲しくても寂しくても口ずさめる歌

コーヒーをがぶ飲みしてから眠ると朝起きてから最速で動けるので良いですね。

人生のスピード違反で逮捕されないかだけが心配ですが……。

最近子供の頃聴いてた音楽を良く聴き直してる。

その中の一つにART-SCHOOLというバンドがあるけど、今聴くとメンヘラとセックスする歌詞しか唄ってなくて笑ってしまう。

特に3rdフルアルバムの『PARADISE LOST』辺りからその傾向が強い。

前に「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音の不倫騒動があった時に「アーティストは体験を曲に反映させてくれればそれで良い」みたいなことを言ったけど、例えばMr.Childrenは不倫から不倫相手と再婚までした『深海』~『Q』の頃が一番良い音楽を作っていた。

『幸せのカテゴリー』という恋人との関係が冷めてしまったことを唄った、当時の状況を考えると逆ギレのような曲もあれば、『Everything (It's you)』のような明らかに不倫相手に対して唄ったラブソングもあった。

体験から良い曲を作ってくれれば、ファンとしてはそれで満足なのだ。

(ちなみにゲスの極み~は嫌いなのでほとんど聴いたことがなく、不倫の件が曲に反映されてるのかは知らない)

そういう意味だとART-SCHOOLというバンドはメンヘラな曲を作りメンヘラのファンを喰いまくって、その体験がまた曲になるという完璧な自己循環をしてるバンドだと言えるのかもしれない。(?)

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    Forget the swan

    歌:ART-SCHOOL

    作詞:Riki Kinoshita

    作曲:Riki Kinoshita

     

    いつか見た世界へと 今君と堕ちていく
    あの犬より醜いと 恥ずかしく思ってた
    水と血が混じり合う あの赤の美しさ
    汚れすぎた俺の血は そう君が洗うから

    死んだ目にさぁ 光を射つ様な
    そんな気分で 今日は生きれそうさ
    生きれそうな気がして

    「口でされるのが好き?」
    そう彼女云ったんだ
    そんな恥ずかしい事を なぜ今も覚えてる
    ドブネズミとキリストが 今愛をまさぐった
    汚物まみれの日々を ただ君と生き延びる

    子宮の中の 月に見とれたいな
    そんな気分で 今日も死んでくんだ
    今日も死んでくんだって

    ゴミだらけの世界へと 今君と堕ちていく
    行き先など無いけれど ただ猿の様にやる
    捨てられた黒猫の あの澄んだ美しさ
    汚れすぎた俺の血は そう君が洗うから

    死んだ目にさぁ 光を射つ様な
    そんな気分で 今日は生きれそうさ
    生きれそうな気がして 

     ◆

    僕の世代だとやっぱり「Syrup16g」「ART-SCHOOL」「BURGER NUDS」が青春の三大メンヘラバンドとして存在している。

    三バンドはメンヘラバンドと言っても世界観はそれぞれ大きく違っていて、Syrup16gは拗らせ自意識系、ART-SCHOOLはメンヘラセックス文学系、BURGER NUDSはオタクセカイ系という感じだ。

    オタクの中ではこの中でART-SCHOOLの評価が低いことが多い。

    それは曲にパクリや引用が多いことも原因かもしれないけど、やはり性と死ばかり繰り返し唄った世界観がオタクには受け入れられないのだと思う。

    しかし、「メンヘラ」というモチーフを考えた時に性的なものはやはり重要な要素としてあり、メンヘラとセックスする曲ばかり描いているART-SCHOOLの世界観もある種の「リアル」だと思うのだ。

    Take care of yourself.

    Twitterの議論にうんざりするのは「頭の悪い人」が多いからではなく、「悪い人」が多いからだと最近気が付いた。

    この場合の「悪い人」とは何かと言うと、「正しさ」や「良さ」を求めて議論を交わそうとするのではなく、自分の主張を通したり自分が得をするためだけに発言する人達のことだ。

    Twitterで論を交わすのはそういう人、或いは人達だけになってしまい、そんな人達といくら議論を積み重ねたところで相手の陣営のプロパカンダに利用されてしまうだけなのだ。

    Twitterにいるのは「頭の悪い人」達では決してない。

    人間の多くはそもそも文章というものをそんなにいつもいつも書けるわけではなく、Twitterでツイートし続けられるという時点で、内容はともかくある程度以上頭の良い人達であることは間違いないだろう。

    どちらかというと問題は利己的な人間だらけになってしまったということなのだ。

    冗談と言うのは心の余裕から生まれる。

    悪い人がいるような場所では迂闊な発言は出来なくなり、冗談を言う余裕もなくなってしまう。

    その結果ピリピリとした空気になり、余計に争いが起きる――Twitterはそんな悪循環に陥ってしまっているように見える。

    そんな場所でいくら議論を交わし合ったところで余計に溝が深まるだけだ。

    Twitter人類補完計画だ」という例えは良く使われていたけれど、そうなのであれば最終的に「気持ち悪い」と言って現実に着陸するのはある意味予定通りだとも言えるだろう。

    問題はもう既に「アスカ」がいる碇シンジはそれで良いのだが、そうでない者達は何処に行けば良いのか、ということだ。

    永遠に、誰とも混じり合うことがないまま、Twitterで独り善がりな独り言を呟き続けるしかないのだろうか?

    そして、他人のそういった独り言を、「気持ち悪い」と言うことも出来ずに眺め続けるしかないのだろか?

    PARADISE LOST

    香川県民はゲームを一日60分までにするより、うどんを一日60本までにした方が良いんじゃないだろうか。

    ゲームをやらない方が良いってそれはまぁそうなんだけど、その手段が「禁止する」っていうのは良くない。

    「禁止」っていう手を取らないとやめさせられない時点で教育の敗北で、やりたいという気持ちが残ったまま禁止にしたって反動で後から結局やるようになるだけなんだよね。

    真っ当に生きて、ゲーム以外の楽しいことを教えて、人生を充実させたら自然とゲームなんてそんなにやる必要はなくなる。

    この前初めて今の労働で遅刻をしてしまった。

    寝不足だとか、疲労が溜まっていたとか色々言い訳は出来るけど、結局のところ遅刻する時っていうのは精神的に参ってる時が多いと思う。

    怒られたらこのままやめてしまおうかな何てぼんやり思ってたけど、優しくされてしまったのでまだやめることが出来なくなってしまった。

    今の労働をやめたらそのまま廃人になりそうで怖い。

    身体が健康ならホームレスになっても良いのだけど、最早そうなることすら出来ない。

    子供の頃の夢の一つであった、「ホームレスになって一日中図書館で本を読む」はもう叶うことはないんだなぁ。

    クーラーのない部屋で30年生活してきた経験から言うと、冬より夏の方がキツい。

    冬は寒ければ寒いだけ重ね着をすればしのげるが、夏はそうもいかない。

    寒くて死ぬことも凍死レベルまで行かないと起きないが、暑いのは熱中症という命の危機もある。

    特に最近の夏は暑すぎて、毎年「今年を乗り切れる気がしない……」と思ってる気がする。

    ただ、寒いが故にやる気が起きず活動力が低下してるというのは無意識の内にあると思う。

    しかし、冬というのは本来動物は冬眠している時期であって、起きて何かしているだけ人間はまだ偉いと思うのだ。

    そう思いながら今日もこたつでぬくぬくしているのであった。

    サムデイ イン ザ レイン

    京都アニメーションのアニメについて考える時、もう京アニは以前のようにアニメを作ることが出来ないという事実を思い出して驚愕する。

    京アニのアニメはゼロ年代に爆発的に流行り、僕らの世代のオタクというのは『ハルヒ』『らき☆すた』『クラナド』『けいおん!』等の作品の影響でアニメを観るようになった人はかなりの割合いると思う。

    その後10年代の京アニは、ゼロ年代に比べると勢いを落としていた。

    京アニのアニメというのはやはり「日常系」的なものをイデオロギーとして掲げていて、その効力が10年代になり力を失い、「なろう系」的なものに負けてしまっている印象を受けた。

    ハルヒ』『らき☆すた』信者の僕としては山本寛監督の不在も大きく、最近の京アニのアニメはもうほとんど観てなかった。

    それでも、京アニにはこれからもアニメを作り続け、「日常系」の可能性を追求して欲しかった。

    AIR』『Kanon』『CLANNAD』等のKeyのエロゲー原作のアニメは傷ついたヒロイン、或いは主人公を日常系的な共同体によって回復するという作品だった。

    特にそれは初期Keyの集大成的な作品である『CLANNAD』に表れていて、クラナドの世界では「街全体=エロゲー的、日常系的世界観」が一つの主人公とヒロインを包む共同体のようになっていた。

    エロゲーからアニメになることによって恋愛要素は薄れ、その結果エロゲーが日常系に限りなく近づいたのがKey原作のアニメだと言える。

    これらの作品は日常系というイデオロギーを掲げた京アニの、理論的実践的な作品だと言える。

    ハルヒ』『らき☆すた』だけでなく、『CLANNAD』もあったからこそ京アニのこうしたイデオロギーは支持されたのだ。

    けいおん!』で日常系をやり切った京アニは、10年代に入ってから変化球的な作品ばかりを作ってきた。

    けいおん!』が一回きりのものだとわかっていた京アニにとって、それは日常系の新たな可能性の模索だったのだと思う。

    その一つ目が『日常』というそのまんまのタイトルの作品なことからも明らかだろう。

    『日常』は「日常系」であればどんなハチャメチャな内容も出来るという内容で、これから変化球的な日常系を作っていくという意思表明だと見ることができる。

    氷菓』は女の子しか出てこない日常系アニメとコテコテの萌えエロラノベアニメに二極化してしまった当時のアニメの中で、『ハルヒ』からオタク的なイデオロギーを取り除いてもう一度捻くれた男主人公+かわいいヒロインという組み合わせのアニメを作ろうという作品だった。

    たまこまーけっと』は『けいおん!』の山田尚子的な世界観をもう少し広い街まで世界観を広げられるかという作品。

    Free!』は女の子しか出てこない日常系アニメを反転させ、男性キャラだけの日常系を作った。

    ここでは個人的な好みは置いておくが、それらの作品の試みは成功しているものもあれば、失敗しているものもあっただろう。

    それでも京アニは他のアニメ会社のように安直な『けいおん!』の焼き直しのような日常系を量産することは決してなく、日常系の様々な可能性を模索してきたのだ。

    ライブアライブ

    涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』は僕がアニメを観るようになったきっかけの作品で、やはり同世代の人間には同じ経験の人が多く特別な作品だと思う。

    かつては前の世代の『ガンダム』『エヴァ』みたいな世代を代表する作品がただの萌えラノベだなんて、オタク第四世代が一番オタクの中で萌え豚世代なのを表してると思っていたが(まぁそれは今でも間違ってはいないと思う)、今振り返るとこれらは重要な作品だったと思う。

    ハルヒ』というのは、要は涼宮ハルヒというSF的なものに憧れる拗らせたオタクがSOS団の活動を通して日常の幸せみたいなものを掴んでいく作品だ。

    つまりこれはオタクにおけるファンタジーから日常系への移行の話なのである。

    そして『らき☆すた』はまさにその「日常」の実践編のような話で、そこでは泉こなた的なオタクトーク柊つかさ的な普通の日常が混在した世界が描かれている。

    泉こなたのようなオタク女子高生は、『らき☆すた』放送当時の2007年には架空の存在だったと思うが、今の時代にはいくらでもいてもおかしくはない。

    ハルヒ』『らき☆すた』が僕らの世代のオタクを大量に作り、そしてその結果『らき☆すた』のような世界は本当に実現したのだ。

    現実が虚構を作り、そして虚構がまた現実を作るという例だと言える。

    ハルヒ』『らき☆すた』と比べると、その後の『けいおん!』は少し色の違った作品に思える。

    けいおん!』ではオタクという要素は一切なくなり、柊つかさ的な完全な「日常」だけが描かれる。

    ではこのような世界はその後訪れたのかというと、それはある意味訪れていると言えるのかもしれない。

    今では「オタク/非オタク」を分ける意味はあまりない。

    「オタク」とはただの「アニメを観ている人」「ちょっとダサい人」程度の意味でしかなくなったし、オタクとSFやファンタジーという要素も結びついているものでもなくなってしまった。

    「オタクである」という自意識は最早何の意味もなく、それはただの日常的なものでしかないのだ。

    けいおん!』とはロックバンドの話だが、「ファンタジーもなく、オタクの自意識もなく、普通の日常だけを描く」ことこそが、当時のオタク文化の中ではまさに「ロック」だったのだ。

    それは一回限りの魔法のようなものであり、その役割を終えた日常系アニメはその後は一ジャンルとして収束していく。

    涼宮ハルヒの憂鬱』が完結しないまま終わってしまったのは一つの象徴のように思える。

    「オタクであるという自意識に意味がなくなった」と書いたが、ではオタクが拗らせを治し日常に戻れたのかというと必ずしもそうではないと思う。

    最近のオタクは一般人と区別が付けられず、オシャレな人、リア充な人、オタク以外の趣味も持ってる人もたくさんいるだろう。

    それでもいまだにオタク的な拗らせを抱えたまま生きている人は多い。

    涼宮ハルヒオタク文化が終わるということだけ予言し、完結しなかったことによってその道筋は示してくれなかったのだ。

    今日は鬱が酷かった。

    原因は大体解っているのだけど、この世の大体のことは解っていてもどうにもならないことばかりだ。

    だからやっていくしかないのだろう。

    「鬱」という言葉を辞書で引くと、「心が晴れ晴れしないこと。気がふさぐこと。憂鬱。」と書いてある。

    鬱とは要するに心が「塞がる」ことなのだ。

    子供の頃、どうしてあんなに絶望的な気持ちになったのか。

    それは子供には逃げ場がなく、塞がったらそこから心が抜け出すことが出来ないからだ。

    大人になって、心を逃がす方法をたくさん身に着けることが出来た。

    それでも心はどうしようもなく塞がってしまう時がある。

    塞がらないように、逃げ場がなくならぬよう、心をいつでも逃がせるようにしなくてはならない。

    「鬱は甘え」という言葉がある。

    鬱も風邪と同じようなものだと考えると、「風邪は甘え」というのは間違ってるとも言えるし正しいとも言える。

    風邪を引いてしまったのはもうどうしようもないのだから休むしかなく、それを「甘え」だと言ってもそれは治すためにはプラスにはならず根性論でしかないだろう。

    しかし、風邪を引きそうだとわかっているのに布団を敷かずに眠ったり、偏った食事を摂ったり、手洗いをしなかったり――それは「甘え」だと言えるかもしれない。

    僕達に出来ることは、心の布団をいつも敷くことなのだ。

    DON'T TRUST OVER THIRTY

    自分と同年代の人間が「おっさん」や「老害」を名乗っているのを見ると、「その年齢でおっさん気取ってもただの若造じゃねぇか」と思ってしまう。

    どうもその言葉は厨二染みたものにしか見えないのだ。

    それに、その言葉には自分が若い文化に着いて行けないこと、現役で活動できないことに対する諦めや居直りを感じてしまう。

    もちろん自覚してない老害が一番害悪であることは間違いないので、無自覚に老害になるくらいだったらそうやって自分でネタにしてしまった方がまだ無害なのかもしれない。

    僕の年齢は実際「若者」とも「おっさん」とも言えない微妙な年齢だ。

    ただ、人間は必ずしも「若者」ではなく「おっさん」でなくとも生きていけると思うのだ。

    若さに甘えず、老いにも甘えず、一人の人間としていつまでも現役で生きていきたい。

    老害」の問題を考える時、年齢の問題と世代の問題の二つがあると思ってる。

    歳を取ったことによって能力が劣化し、頭もボケてしまい、それで周りに迷惑を掛けるという年齢の問題もあるだろう。

    しかしそれとは別に、実は若い頃から同じ行動をしているだけなのに、世間の常識や若者の感覚が変わったが故に現代の人の眼から見て「老害」に見えてしまうという世代の問題もあるのだ。

    これはとても怖いことだと思う。

    出会い厨のおっさんはおっさんになったからあのような顔文字を使うのではなく、若い頃は若者文化であった顔文字が世代が変わって今やただのおっさん文化になってしまったというだけなのだ。

    痛々しいおっさんを見て「こうはなるまい」と今思っている若者だって、今のままの姿でただ時間だけ過ぎていけば、そのまま何も変わらないのに自動的に「おっさん」「老害」となってしまうのだ。

    それにしても今の時代は「おっさん」に対してちょっと冷たすぎじゃないかと感じることもある。

    結局のところ人間が皆同じように量産されているから、そうなって来ると人間の価値なんてもう単純に美貌だとか若さだとかそういうものしかなくなってしまうのだ。

    誰もが誰も他人と同じことしか出来ないのならば、若い方が良いとなってしまうのは仕方ない。

    「おっさん」になりたくなかったら何者かになるしかない。

    何者にもなれなかった人間は、ただの老いた動物として殺処分されるだけなのだ。