サムデイ イン ザ レイン

京都アニメーションのアニメについて考える時、もう京アニは以前のようにアニメを作ることが出来ないという事実を思い出して驚愕する。

京アニのアニメはゼロ年代に爆発的に流行り、僕らの世代のオタクというのは『ハルヒ』『らき☆すた』『クラナド』『けいおん!』等の作品の影響でアニメを観るようになった人はかなりの割合いると思う。

その後10年代の京アニは、ゼロ年代に比べると勢いを落としていた。

京アニのアニメというのはやはり「日常系」的なものをイデオロギーとして掲げていて、その効力が10年代になり力を失い、「なろう系」的なものに負けてしまっている印象を受けた。

ハルヒ』『らき☆すた』信者の僕としては山本寛監督の不在も大きく、最近の京アニのアニメはもうほとんど観てなかった。

それでも、京アニにはこれからもアニメを作り続け、「日常系」の可能性を追求して欲しかった。

AIR』『Kanon』『CLANNAD』等のKeyのエロゲー原作のアニメは傷ついたヒロイン、或いは主人公を日常系的な共同体によって回復するという作品だった。

特にそれは初期Keyの集大成的な作品である『CLANNAD』に表れていて、クラナドの世界では「街全体=エロゲー的、日常系的世界観」が一つの主人公とヒロインを包む共同体のようになっていた。

エロゲーからアニメになることによって恋愛要素は薄れ、その結果エロゲーが日常系に限りなく近づいたのがKey原作のアニメだと言える。

これらの作品は日常系というイデオロギーを掲げた京アニの、理論的実践的な作品だと言える。

ハルヒ』『らき☆すた』だけでなく、『CLANNAD』もあったからこそ京アニのこうしたイデオロギーは支持されたのだ。

けいおん!』で日常系をやり切った京アニは、10年代に入ってから変化球的な作品ばかりを作ってきた。

けいおん!』が一回きりのものだとわかっていた京アニにとって、それは日常系の新たな可能性の模索だったのだと思う。

その一つ目が『日常』というそのまんまのタイトルの作品なことからも明らかだろう。

『日常』は「日常系」であればどんなハチャメチャな内容も出来るという内容で、これから変化球的な日常系を作っていくという意思表明だと見ることができる。

氷菓』は女の子しか出てこない日常系アニメとコテコテの萌えエロラノベアニメに二極化してしまった当時のアニメの中で、『ハルヒ』からオタク的なイデオロギーを取り除いてもう一度捻くれた男主人公+かわいいヒロインという組み合わせのアニメを作ろうという作品だった。

たまこまーけっと』は『けいおん!』の山田尚子的な世界観をもう少し広い街まで世界観を広げられるかという作品。

Free!』は女の子しか出てこない日常系アニメを反転させ、男性キャラだけの日常系を作った。

ここでは個人的な好みは置いておくが、それらの作品の試みは成功しているものもあれば、失敗しているものもあっただろう。

それでも京アニは他のアニメ会社のように安直な『けいおん!』の焼き直しのような日常系を量産することは決してなく、日常系の様々な可能性を模索してきたのだ。