DON'T TRUST OVER THIRTY
自分と同年代の人間が「おっさん」や「老害」を名乗っているのを見ると、「その年齢でおっさん気取ってもただの若造じゃねぇか」と思ってしまう。
どうもその言葉は厨二染みたものにしか見えないのだ。
それに、その言葉には自分が若い文化に着いて行けないこと、現役で活動できないことに対する諦めや居直りを感じてしまう。
もちろん自覚してない老害が一番害悪であることは間違いないので、無自覚に老害になるくらいだったらそうやって自分でネタにしてしまった方がまだ無害なのかもしれない。
僕の年齢は実際「若者」とも「おっさん」とも言えない微妙な年齢だ。
ただ、人間は必ずしも「若者」ではなく「おっさん」でなくとも生きていけると思うのだ。
若さに甘えず、老いにも甘えず、一人の人間としていつまでも現役で生きていきたい。
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「老害」の問題を考える時、年齢の問題と世代の問題の二つがあると思ってる。
歳を取ったことによって能力が劣化し、頭もボケてしまい、それで周りに迷惑を掛けるという年齢の問題もあるだろう。
しかしそれとは別に、実は若い頃から同じ行動をしているだけなのに、世間の常識や若者の感覚が変わったが故に現代の人の眼から見て「老害」に見えてしまうという世代の問題もあるのだ。
これはとても怖いことだと思う。
出会い厨のおっさんはおっさんになったからあのような顔文字を使うのではなく、若い頃は若者文化であった顔文字が世代が変わって今やただのおっさん文化になってしまったというだけなのだ。
痛々しいおっさんを見て「こうはなるまい」と今思っている若者だって、今のままの姿でただ時間だけ過ぎていけば、そのまま何も変わらないのに自動的に「おっさん」「老害」となってしまうのだ。
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それにしても今の時代は「おっさん」に対してちょっと冷たすぎじゃないかと感じることもある。
結局のところ人間が皆同じように量産されているから、そうなって来ると人間の価値なんてもう単純に美貌だとか若さだとかそういうものしかなくなってしまうのだ。
誰もが誰も他人と同じことしか出来ないのならば、若い方が良いとなってしまうのは仕方ない。
「おっさん」になりたくなかったら何者かになるしかない。
何者にもなれなかった人間は、ただの老いた動物として殺処分されるだけなのだ。