ネット航海時代

普段あまりにソシャゲを叩きすぎているのでたまには擁護(?)でも――

以前友人と話した時に、「ソシャゲとはCGIゲームだ」という例えを聞いて凄くしっくりきたことがある。

CGIゲームと言っても最早今の人は誰も知らないだろうけど、まだオンラインゲームすらない時代に作られたブラウザで遊べる物凄く簡単なゲームのことだ。

今思うと何であんなくだらないものをやっていたんだろう?という感じの代物なのだけど、確かに当時僕らはあれにハマっていたのだ。

(僕の場合個人サイトを運営していたので、自分のサイトにCGIゲームを設置したりもしていた)

それを思い出すと、現代の若者がソシャゲにハマっているのをバカにすることは出来なくなってしまう。

当時のインターネットをやっていた僕らは、時代の最先端にいる気分だった。

まだ携帯電話すら普及してない時代、遠くの見知らぬ誰かとコミュニケーションを取れるということは新鮮な体験だった。

掲示板、チャット、個人サイト――

CGIゲームもそれらと同じものだ。

ゲームと言えば誰かの家でテレビに繋げて皆でやるもの、あるいはせいぜいゲームボーイに通信ケーブルを繋いで簡単な通信対戦をするくらいだ。

それを遠くの誰かと、いつまでも対戦することが出来る。

単純にゲームとして考えた時に何の面白味もないはずのCGIゲームにハマったのは、そんな理由からだったと思う。

あれから月日は流れ、今やスマートフォンの時代になり、インターネットは全世界の人間が使うのが当たり前になった。

TwitterInstagramTiktok――

そんな中でゲームというのはまだ最先端の感覚から少し遅れを取っていると思う。

最近はネット対戦出来ないゲームはないと思うが、数年前まではそれすらも不十分だった。

つまり、ソシャゲと言うのはスマフォで手のひらの中の簡単な操作だけで世界中と繋がれることが前提になった世界で、まだ完全にそうはなっていないゲームというジャンルに対する苛立ちとしてプレイされているのだ。

ソシャゲの中でも最近特に流行ったのはカードゲームとしてのゲーム性がしっかりしている『シャドウバース』や、シナリオがしっかりしている『FGO』だろう。

つまりユーザーも本当は中身のないゲームではなく、面白いものをプレイしたいのだ。

ソシャゲではないが、『ポケモンGO』もスマフォの使用感とゲームがようやくちゃんと結びついたゲームだ。

これもゲーム性はまだ大したものではなく、故に一部ユーザー以外には既に飽きられてしまった感じがあるが、いずれ技術が進歩すればゲームとして本当に面白いものが出てくるだろう。

後から振り返るとしょうもないガチャゲーばかり流行っている今の時代は恐らく過度期であり、これからきっと面白いゲームがたくさん登場するのではないだろうか。

Forget the swan

 財布に一銭もなかったので(正確には20円入っていた)、オリーブオイルとニンニクと唐辛子だけでペペロンチーノを作って睡眠薬を飲んでさっさと眠った。

オリーブオイルを大量に入れるのが本場のイタリア流だ。

WHITE ALBUM』のアニメを見始めた。

元々原作のゲームのファンなのだけど、こちらは98年のゲームで、まだ『Kanon』すら発売していないくらい昔のゲームだ。

この頃のエロゲーというのはやはり今のように明確に「ストーリー」があるというわけではなく、このゲームもマップを選択しヒロインに会いに行き、基本的にはそこで会話するというだけのゲームだった。

主人公に最初から恋人がいるというのがこのゲームのシナリオの特殊なところで、そこから心が離れていき別のヒロインと関係を持つところまでが描かれる。

明確なストーリーがない分エロゲーのシステムやプレイ感によって心の距離というものを描いているのがこのゲームの良いところで、その分アニメ化して一本のちゃんとした「ストーリー」になるのなら一体どういうものになるんだろうという興味があった。

エロゲーのアニメ化と言うとKey何かが有名だと思うけれど、基本的にあの手の「名作」エロゲーというのはシナリオと恋愛要素があまり関係ない場合が多い。

だから例えばKeyのアニメは原作の全部のルートを順番にやっていくわけだけど、一人目のヒロインの問題を解決した後に自然と二人目のヒロインの問題に移ることができる。

(この、ヒロインの問題を解決することと、恋愛としてヒロインを攻略することの問題を取り扱ったのがアニメ版『true tears』であるのだが)

しかし、WHITE ALBUMはシナリオに恋愛要素が多分に含まれている。

そもそも恋愛がテーマのゲームなのだから当然だ。

故にその要素はアニメでも残されており、そのまま複数ルートをやるものだから必然的に主人公がとてつもない「クズ」になっている。

アニメ版で原作より更にクズと化すと言えば『School Days』だが、果たして主人公は伊藤誠を超えることが出来るのか?

続きも楽しみに視聴したい。

CENTER OF UNIVERSE

恋愛とは「運命の人」を探すことである――

と書くとただのロマンチックなポエムみたいだけど、運命の人とは要は「合う人」を探すことだと考えるとそれは現実的な話になる。

そういう意味ではどんな人間にだって「運命の人=合う人」はいる可能性があるし、何が相手にとってプラスになるかマイナスになるかも人によって違うのだ。

出会い厨の何が害悪かというと、彼ら(彼女ら)は「誰でも良いから相手が欲しい」と考えているため無差別にアプローチを仕掛けることになる。

本来ならば人間と人間が出会い、相手とコミュニケーションを重ねるうちにお互いが相手を「合っている」と認識しそのまま恋愛に繋がるのだけど、出会い厨はその過程を飛ばしてしまう。

それは「運命の人」を探すに当たって双方にとって無駄な時間を消費することになる。

それだけでなく、恋愛における失敗というのは本人にとってトラウマとして残り、アプローチをされて/して失敗する度に異性に対する期待値というのはどんどん下がっていくことになる。

(過去に男性から酷い目にあった女性がミサンドリストになるのはまさにそれだ)

その結果、そういう経験が積み重なった人間はどんどん異性に対して身勝手になっていき、「運命の人」から遠ざかっていってしまう――

僕が出会い厨を害悪だと考えるのはそう言った理由からだ。

このblogも始めてから10回目の更新になった。

いつも3日坊主で終わる僕にしては上出来なんじゃないだろうか。

人様に向けたちゃんとした文章はまたいつか書くとして、ここは思考の記録の殴り書きとして、どうせ誰も読んでいないのだから自由に書いていこうと思う。

ずっとTwitterしかやっていなかった僕にとって、二行以上の文章を書くリハビリみたいなものだ。

深夜の静かな部屋で音楽を聴いて、「ここが世界の中心だ」って思いながらお酒を飲んで毎日過ごしています。

この狭いバスタブが世界を蹂躙する。

Whole Low is Hollow

今日も大掃除が終わらない。

理由は、積んでいてまだ読んでいない本は読み終わるまで本棚に仕舞ってまってはいけない縛りを掛けているからだ。

そうこうしている間にも、ブックオフオンラインからは次の本が届いている。

ブックオフオンラインを爆破をしない限り、この掃除は永遠に終わらないのではないだろうか――

『職業としての地下アイドル』を読んだ。

現役地下アイドルでライターである著者が地下アイドルのリアルな実態を書いた本なのだけど、この本の中で一番興味深かったのは地下アイドルの女の子の特徴として「普通の人より親から愛されてきた」「イジメにあったことがある」という人が統計で多いということだ。

これを読んで僕がアイドルを好きになったことない理由がわかった気がした。

彼女らは親から強く愛されて育ち、それ故に自分の中に愛を持っているのだが、それをイジメ等の経験から喪失してしまい、それを補うように地下アイドルの活動で愛を振りまき、逆にオタク達からも愛を貰っている。

僕はアイドルのあのキラキラした感じを全く理解できなかったのだが、あれはつまり誰かから愛されて生きてきた証拠なのだ。

家庭環境に問題がありうまく愛を育むことが出来なかった僕は、好きになる作品も自然とそういったものが多くなった。

地下アイドルはよく「メンヘラ」だと言われがちだが、元々愛を持っている人間がそれを失ったのと、そもそも愛を持たない人間では同じメンヘラでも根本的に違うのだと思った。

アイドルのあの過剰さというのは、ある意味失われたものを取り戻そうとしているのだろう。

この本では同じような事柄についてオタクに関しての描写はなかったが、オタクという人種もまたアイドルと同じような環境にあると思う。

オタクと言っても最近は多様な人がいるので一概には言えないが、いわゆる典型的な「オタク」っぽい人は家庭環境が良い人間の方が多い気がするし(そうでなくてはオタク活動はできない)、しかし学校や職場でいじめを受ける程ではないにせよ居場所のない人間は多い。

つまり「失われた愛」を取り戻すために過剰にキラキラしたアニメを観ているということだ。

僕らのような最初から愛を持たない人間は暗い暗いドブの中のような作品ばかり観ているが、オタクと僕らの違いはつまりそこにあるのだ。

生活

1月の目標:大掃除を終わらせる。

ただ心穏やかに過ごしたいだけなのに、生きるのは何て大変なんだろうと思う毎日だ。

あるべき人が、あるべき場所に収まってくれれば良いのになぁと思う。

文化を享受するには時間的、金銭的、精神的な余裕が必要だ。

今の日本でその余裕がある人間が果たしてどれだけいるのか。

非文化の象徴のようなソシャゲがこれだけ流行るのも致し方ないのかもしれない。

冷たい水

言説が「若い人のため」「子供たちのため」になったら老害化の始まり。

人生100年時代なんだし、死ぬまで自分の好きなことをやって生きていたい。

何故インターネットでこんなに「炎上」が発生するのか。

もちろんそれに至るメカニズムは幾らでも説明できるのだろうけど、根本的な問題として皆が「宗教」をやっているということがあると思う。

生きるのが辛く、縋るものを見つけられない今の時代、人は何か「宗教」に頼らないと生きていけない。

もちろんこの「宗教」とは本当の宗教ではなく、その人にとってその代替になる何かだ。

本来なら他人の意見を見て、仮にそれが自分の意見と違っていたとしても、「そういう考えの人もいるんだな」ということで終わる。

しかし、それが「宗教」であれば、自分が縋ってきたそれが否定されることは原理主義的に許されない。

こうして今日もインターネットでは不毛な宗教戦争が起きている。

平日より休みの日の方が基本的に疲れるので、疲労が溜まりまくったまま労働が始まった。

適当にだらだらとやってるし、労働がむしろ休みみたいだ。

YOU CAN (NOT) REDO.

暇な人間は本当にろくなことをしない。

そういう意味では、ソシャゲは暇な人間を大人しくさせておく装置としては良く出来ているのかもしれない。

僕が『ガンダム』をあまり好きになれないのは、あの「中二病」な感じだ。

宇宙世紀」という架空の世界観を作りこむことによって現実よりもむしろ現実的に人間を描写できる、という魅力は理解できるのだけど、しかしそれは一歩間違えるとオタクに不必要な万能感を与える材料にもなり得る。

ガンダムのアンチ的な存在である『エヴァ』は非オタにもウケの良い作品だが、あれは中二病のように見えて実は全く中二病ではなく、それ故にオタクでなくても受け入れられるようになっている。

何が中二病ではないかというと、それは「登場人物が情けない」ということだ。

そもそも「メンヘラじゃないとエヴァに乗れない」という設定からしガンダムをバカにしているのだが、エヴァの登場人物は子供は皆メンヘラだし、大人は皆頼りにならない。

このような登場人物のダメさがエヴァをオタクアニメではなく文芸たらしめている。

(エヴァQ何かはそのダメさを究極的に煮詰めたような内容だった)

「オタク臭い」作品がどんな作品のことかというと、「萌え」や「ロボット」何かはあくまで装飾的なものでしかなく、その本質はやはり「中二臭い」ところにあると思う。

そういう意味ではオタク作品の「中二臭さ」はガンダムの頃と今では少し変容していて、今の中二臭さというのは要するに『ハルヒ』のキョンであったり、あるいは最近のなろう系主人公だったりのような「斜めに構えた」姿勢であると言えるだろう。

エヴァガンダムの偉そうに戦う子供や大人を揶揄したように、今こういったオタク的なものを揶揄するとしたら斜めに構えた主人公、あるいはそんな主人公に従順に付いていくヒロイン達を徹底的にバカにしたものにする必要がある。

エヴァハルヒを「超える」作品を作るとしたら、それしかないと思ってる。