死んだ目にさぁ光を射つ様な

今日は花村萬月の『イグナシオ』ともくもくちゃんの『あの子は優しい。気づいたあなたもきっと優しい。』を読んだのだけど、「花村萬月ともくもくちゃんを足して二で割ったようなエロゲーを作りたいなぁ」ということを話したら笑われた。

エロゲーにエロは必要か論争というのはたまに行われるが、それに対する僕の立場は「世界観を作るために必要」というものだ。

僕は『カーニバル』や『腐り姫』辺りの頃のエロゲーが好きだったのだけど、これらのゲームは名作であるが今のエロゲーと比べるとしっかりとしたストーリーがあるわけではなく、言ってしまえばただの凌辱ゲーと紙一重の存在だ。

そして18禁要素というのはストーリー、または世界観に密接に関係している。

エロゲーにエロが必要なのは何もオタクがオナニーするためだけではなく、このように作品の世界観や雰囲気を作るためなのだ。

この時代のエロゲーを親しんでいたものからすると今のエロゲーは映画や小説のようにストーリーがしっかりしすぎているし、そしてエロがビックリマンチョコレートのチョコレートのように一応付いているだけのものになってしまっている。

エロがストーリーと関係なくなってしまったのはKeyからの流れだと思うし、Keyはエロゲーにしっかりとした「ストーリー」をもたらしたが、その代わりにエロゲーエロゲーである必要性も奪ってしまった。

昔のエロゲーを懐古する者は多いが、その時に漠然と挙げられるのは「鬱」や「電波」と言った要素だ。

しかし僕はそれは昔のエロゲーの本質ではないと思っていて、エロゲーが取り戻すべきなのは「エロ」要素の復活なのだ。

そして、エロゲーなんてやっているより純文学でも読んでいた方がよっぽどエロとストーリーは密接に繋がっているなぁと花村萬月を読みながら思ったのだ。

僕がもう一つエロゲーで重要だと思っている要素は「救済」だ。

何故僕が映画ではなく、小説ではなく、アニメではなく、エロゲーをやるのかと言ったらそれは「救済」を求めているからだ。

それはKeyのような典型に限らず、いわゆる「鬱ゲー」作家と言われている田中ロミオ瀬戸口廉也の作品であったとしても、やはりその作品は「救済」を求めて作られているように見える。

エロゲーについて考える時この要素も忘れてしまってはいけないと、もくもくちゃんの作品の圧倒的救済の力を読みながら思った。

日常とは麻痺した異常

年末年始なのでここ数日いつもの労働とは違うバイトをやっていた。

こうやって普段やってることと違うことをやってみると、いかに自分が無能なクズかということを思い知ることができるので素晴らしい。

blogが面白いと褒められたけど、自分では酒を飲んで適当に書き殴っているだけなので正直ろくな文章ではないと思ってる。

ただ、ここ数年ずっと自分はインターネットで自由に文章が書けていなかったらしく、ここではようやく解放されて好き勝手に書くことが出来るようになったのだと思う。

それは人間関係が原因だし、やっぱり人間関係はろくなもんじゃない、孤独が一番だと思う。

とは言え文章である以上誰かに読まれなくては意味がないのだし、この矛盾をいかに解決するかというのがインターネットで何かをするにあたっての課題なのだろうか。

ある種の古き良き「オタク」的なコミュニケーション、オタクという言葉の語源である互いを「お宅は~」と呼び合うような独特の距離の取り方、あの距離感がインターネットでコミュニケーションをするにあたって必要な気がする。

最近の若いオタクやインターネットユーザーと一番反りが合わないのはそこの部分だろう。

全てを突き抜けるようなあの感覚。

何もかも報われるようなあの感覚にまた出会いたくて、まだ生きている。

必然と選択

Twitterで思ったことを何でもかんでもそのまま垂れ流す人間は、それを話す友達もおらず、自分の考えを内省する知能もない――つまりは何の価値もない人間ってことですね。

少し前に乳袋ポスターについてフェミニストとオタクが論争していたけれど、そのことについて。

はじめに言っておくと、僕は乳袋ポスターに何の思い入れもないし、公共の場に貼られても貼られなくてもどっちでも良いと思っている。

(強いて言うならば乳袋ってオタクコンテンツの絵柄としても古臭いよなぁっていうくらいだ)

そして多くの人が誤解しがちだが、このような問題に絶対的な「正解」はないし、「正解」は闘争によって決まる。

つまりオタクもフェミニストも論を交わして「闘争」をしているわけだ。

その前提の上で、彼ら彼女らがそのような主張をする動機付けについて考えてみる。

フェミニストの人というのは過去に性的被害や性別による差別を受けてきた人間が多い。

そのような経験に基づいて、性被害や女性差別を無くしたいという動機付けによってフェミニズムの思想を持っている方々が多い。

そのために中には過剰なミサンドリーに陥っている人間も多いが、それもまた過去の経験を考えると仕方ないことのように思える。

対してオタクが乳袋ポスターを公共の場に置くことに過剰に拘る理由は「オタク文化を攻撃されたくない」という動機付けのように思える。

それはやはり過去のマスコミによるオタクバッシング、二次元に対する表現規制、あるいは個人的なオタクという理由で虐められたトラウマ等に駆動されていることが多い。

過去の経験が動機付けになっている、という点においてはフェミニストと共通しているのだが、しかし戦う敵を間違えているのではないだろうか?という感も否めない。

フェミニストの主張というのは「公共の場に置くのに相応しくないのではないか」というものであり、オタク作品を表現規制しようとしているわけではないし、ましてやオタクを人格攻撃しているわけでもない。

つまりここではオタクはパブリックについての議論をするつもりはなく、「オタク文化を攻撃するものは許さない」という漠然とした宗教的な理由によって乳袋ポスターを公共の場に貼れと主張しているのだ。

これは活動の動機付けとしては真っすぐなものではなく、気持ち悪いものを感じてしまう。

何となく久しぶりにエロゲーをやりたい気分になったけど、エロゲーをやれる昔のパソコンを持っていなかったので、代わりに積んでいた元長柾木の『ヤクザガール・ミサイルハート』を読んだ。

ヤクザの抗争モノと聞いてあまり好きでないタイプの作品かと思っていたのだけど、読んでみたらそれはいつもの元長柾木でしかなく、改めて信頼できる作家だなぁと思った。

この人のエロゲーは普通の日常パートを送っていたかと思ったら突然セカイ系的な展開が始まるところが魅力なのだけど、この小説はヤクザの抗争モノなのだが、しかしやっていることは絶対的にセカイ系でしかないというものだった。

何となく勝手に勇気づけられてしまったし、僕の人生もセカイ系的でありたいものだ。(なんじゃそりゃ?)

I Need to be Myself

どうしてこんなに鬱になっているんだろうと原因を探ってみても、頭の中の時系列がバラバラのパズルのようでどうにもならない。

この謎を解き明かすにはきっとこの世で一番嫌いな自分自身と向き合わないといけないんだろう。

自分がバラバラになっているのはある種の心の防衛機能であって、そうであるならば放っておいた方が良いのかもしれない。

ただ、純粋でありたいだけなのになぁ。

その気持ちがこの悪夢を作り続けているのだろうか。

何故だか分からないが今日はLINEで自慰行為の話題になったのだけど、自慰行為というのは暇になると過剰にしてしまうものだと個人的には思ってる。

よく「スポーツで性欲を発散」という言葉があるけれど、別にスポーツで性欲が満たされているわけではないが、何かに熱中すれば自然とそちらに意識が向き自慰行為をする暇はなくなる。

そういうものが何もないと自慰行為だったり、過食行為だったりに人間は走ってしまう。

これは何かというと文化の問題だと思っていて、文化というものが衰退すればするほど人間は動物のようになり、三大欲求の奴隷になってしまうのだ。

頭の悪い男が胸のデカい女とセックスすることしか頭になかったり、何の取柄もない女ほどハイスペ男と結婚したがったり、文明の遅れた田舎の家族が子供の跡取りのことしか考えてなかったり──これらも全部同梱の「文化」の問題だ。

そういう意味では声優が結婚して激怒するオタクコンテンツというのは全く性欲から抜け出せておらず、「文化」と呼べるものではないのかもしれないなぁなどとちょっと思ったりした。
とか書くとオタクの人に怒られそうですが、いや僕も一応オタクなんでね……柊つかさで一体何回自慰行為したと思ってるんだ?

「嫌なら見るな」という素晴らしい言葉に従ってTwitterを見るのをやめた。

インターネットでまでこんな地下室に引きこもって、一体僕は何処に向かおうとしているのだろうか。

HELLO

初夢ではないが、久しぶりに夢を見た。

それは恋人が死んでしまうという夢だった。

何か事件が起こっていたようで、僕はそれを解決するために奔走しているのだが、そのために恋人のことを放っておいてしまいその間に事件の首謀者に殺されてしまうという内容だった。

号泣していたところで目が覚めた。

こういう夢は覚醒した後も夢の中の感情がまだ残っている。

最近どうも夢を見るということがなくなって、とうとう僕の貧困な想像力も完全に枯渇してしまったのかなぁと思っていたが、この夢を見た昨日は大掃除をしている途中だったので部屋の隅の方で丸まって眠ったことを思い出した。

思い返せば昔は布団も敷いていないような部屋だったり、ネットカフェだったり、駅の階段だったり、ろくなところで睡眠を取っていなかったので、それで眠りが浅くてよく夢を見ていただけなのかもしれない。

こうしてキレイな布団で眠れている今の生活に感謝するべきなんだなぁと思いながらも夢の中のあの冒険や、あの人にもまた会いたいなぁとも思う。

世間の喧騒というものから逃れてみると、この世界には本当に何もないんだなぁと思いながらお酒を飲んでいる。

僕は「祈り」というものが前から嫌いで、何故なら祈る余裕もなく生きてきたからだ。

「良いお年を」というフレーズも恐らく祈りなのだし、それならばそんなものは要らないだろう。

誰に言われなくたって今年も来年も最悪だし、それを振り返る露悪趣味も僕にはない。

そんなこんなで昨日を繰り返しながら、2020年になろうとしています。

やあ、どうも、こんにちは。

おやすみ。